ここは明日香の病室――「おかしいな…。朱莉さんが電話に出ないなんて」翔は溜息をついた。「あら?朱莉さん電話に出ないの? 珍しいわね。いつもならすぐに電話に出るのに」明日香は病室のベッドの上で雑誌をめくりながら翔を見た。「うん。確かに少し気になる。例え出られなくても普段ならすぐに折り返しかかってくるのに……」翔は鳴らないスマホを握りしめた。「何かあったのかしらね? 一応琢磨に電話してみたら?」明日香のアドバイスで翔は琢磨に電話を掛けてみると3コール目で琢磨が電話に出た。『もしもし。どうしたんだ? 夕方にはそっちへ行こうと思っていたんだが、何か急用か?』「ああ……急用って訳じゃないんだが、さっき朱莉さんに電話を入れたんだが出ないんだよ。それに折り返しの連絡も無いし……」『朱莉さん、今日は映画の試写会に行くって言ってたから、それで出ないんじゃないのか?』「へぇ……映画の試写会にか。誰と行くんだ?」『おい……お前、喧嘩売ってるのか?』受話器越しからイラついた琢磨の声が聞こえてくる。「急にどうしたんだよ? 何か気に障ることお前に言ったか?」『京極って男と行くんだってよ』「京極……京極ってあの朱莉さんに犬を預けた?」『え? おい翔。お前、京極って男知ってるのか?』「偶然外で会って紹介されたんだ。今回沖縄旅行へ行く時も偶然会って……」『お前、まさか旅行へ行くこと告げたのか?』受話器越しから琢磨の怒りを抑えた声が聞こえて来る。「ああ、つい……」『お前……この馬鹿! 何でもっと早くあの男と会ったことを俺に言わないんだ!? あの男はなぁ、ことあるごとに朱莉さんに接触してるんだよ! ひょっとする俺達のことを探っている産業スパイだったらどうするんだよ!』受話器越しから琢磨が怒鳴りつけてきた。「さ、産業スパイだって?」そんなまさかと翔は思いたい。だが確かにあの男は必要以上に朱莉のことを見守っていた気がする。自分達だって朱莉の母親が緊急搬送される姿に気が付かなかったのに、あの京極と言う男はそれに気が付いていたのだから。しかし突然琢磨の方から謝罪してきた。『いや……すまなかった。翔……俺が悪かったんだ。本当はあの京極って男は以前から朱莉さんに近づいていたんだ。だが朱莉さんが契約書の件で浮気は駄目だと書かれていただろう? 自分は京極に好意
—―その頃。 京極に追及されていた朱莉は俯いたままじっと身じろぎをしないでいたとき。今度は朱莉の個人用のスマホが着信を知らせた。朱莉はスマホをチラリと見て目を見開いた。(九条さん!)「朱莉さん……今度は違うスマホが鳴っていますが?」京極が朱莉に声をかけてきた。「あ、あの……電話……出てもよろしいでしょうか?」朱莉は遠慮がちに京極に尋ねた。「ええ、別に構いませんよ。どうぞ」朱莉がすみませんと言って電話に出る姿を京極は黙って見つめていた。「もしもし……」『朱莉さん! 今、誰かと一緒にいるのか!?』受話器越しから琢磨の切羽詰まった声が聞こえてきた。「あ、はい……。京極さんと一緒です……」朱莉は目の前に座っている京極の姿をチラリと見た。京極は自分の名前が出たので、朱莉をじっと見つめた。『そうか……やはり朱莉さんは京極と一緒にいたんだな? だからさっきは翔の電話に出なかったのか?』「は、はい……」『分かった。朱莉さん、電話を京極に代わってくれ』「え? い、一体何故ですか?」朱莉は琢磨の突然の申し出に驚いた。『何故って……朱莉さん。今困ったことになっているんじゃないのか? 俺が朱莉さんに代わって話を聞くよ。京極に電話を渡してくれ』(九条さん……!)確かに朱莉は今ピンチの状態に陥っていた。(だけど……九条さんを巻き込むなんて……)『いいから、俺に任せろ。元はと言えば朱莉さんをこんなことに巻き込んだのは全て俺達の責任なんだから』受話器越しから琢磨の気遣う声が聞こえてくる。「分かりました……」朱莉はスマホを京極に差し出した。「あの……電話の相手は九条さんからなのですが……京極さんとお話がしたいと言われているので、代わっていただけますか?」「僕と……話ですか?」「はい、よろしいでしょうか?」「ええ、僕は構いませんよ。ではお借りします」京極は朱莉からスマホを預かると耳に押し当てた。「もしもし……」『京極さんですね? 朱莉さんに何の話をしようとしていたのですか?』「何故貴方にお話ししなければならないのですか?」『朱莉さんを苦しめているのじゃないかと思いましてね』「苦しめている? それを貴方が言えるのですか?」京極は口角を上げた。『どういう意味でしょうか?』琢磨は苛立ちを抑えながら尋ねる。「僕から言わせれば、
朱莉が電話を切ると、早速京極が話しかけてきた。「朱莉さん。先程の彼も今沖縄にいるのですね。明日、皆さんと合流されるのですか? でも何故副社長の秘書である九条さんも沖縄へ行かれているのですか? 本当は何か沖縄でトラブルが起こったのではないですか?」「京極さん……」 彼はマロンを引き取ってくれた恩人だ。だけど、これ以上何か口を開けば翔との契約婚を見抜かれてしまうかもしれない。万一世間にばれてしまえば、大変なことになってしまう。(私がもっとうまく立ち回ることが出来たなら……こんなことにはならなかったかもしれないのに……)京極に心配をかけ、九条や翔。そして明日香に迷惑を掛けてしまうことになるかもしれない。自分一人ならいくらでも犠牲になっても朱莉は構わないと思っている。けれど、どうすれば今の危機的状況を脱することが出来るのか、もう朱莉には分からなくなってしまっていた。すると京極がため息をついた。「朱莉さん……。僕は先ほども言いましたが、他の人達はいざ知らず、貴女だけは困らせたくは無いんです」朱莉は黙って京極を見つめた。「貴女が困るのであれば……いいでしょう。僕はこれ以上あなた方の関係を追及するのはもう止めます。九条さんにも言われましたが、考えてみれば僕は第三者の人間ですから、口を挟む権利なんか初めから有りませからね。だけどこれだけは教えてください。貴女が沖縄へ行く本当の理由を教えて下さい。お願いします。僕は貴女が本当に心配なんです」そして京極は頭を下げてきた。一方、これに驚いたのは朱莉の方だ。「そ、そんな京極さん。どうか頭を上げてください。それに京極さんはマロンを引き取ってくれた恩人ですから」(私を気の毒に思って京極さんはマロンを引き取ってくれたのだから……何もかも黙っている訳にはいかないわ……)「分かりました。沖縄で何があったのかお話しま………」そう。別に全てを話す必要は無いのだ。(皆さん。ごめんなさい……)朱莉は心の中で謝罪をすると重たい口を開いた。「実は……沖縄で明日香さんが体調を崩して入院してしまったんです。当分の間は絶対安静らしくて……それで私が沖縄に行って……その、明日香さんの身の周りのお手伝いを……」朱莉はテーブルの下で両手をギュッと握りしめながら京極を見つめる。(大丈夫、全てを話している訳じゃないけど、嘘をついているわ
「では、朱莉さん。そろそろ帰りましょうか? 明日の準備もあるでしょうし。お引止めしてすみませんでした。映画は……そうですね。少し照れ臭いけど母と2人で観に行って来ることにします」京極は照れ笑いする。「そうですか……お母様と」(お母さん……早く元気になったら一緒に出掛けたいな……) 2人並んで歩きながら、京極はマロンの様子を朱莉に詳しく教えてくれた。あれ以来マロンはとても元気に遊びまわっていると言う。それを聞いて朱莉は安心した。**** 億ションへと続く並木道を歩きながら京極が話しかけている。「朱莉さん。明日の飛行機の時間は何時の便ですか?」「はい、御前10時の便になります」「10時ですか……なら僕が車で羽田空港まで送りますよ。荷物もあるでしょうし」朱莉は京極の提案に驚いて慌てた。「そんな! とんでもないですよ。沖縄へ持って行く荷物はもう先に郵送手続きをしたんです。本当に身軽な格好で行くので大丈夫ですから」「いえ、送ります。送らせて下さい」京極は立ち止まると朱莉をじっと見つめた。その顔はとても真剣で、そこまで強く申し出をされれば朱莉は頷くしか無かった。「すみません……お仕事もあるのにご迷惑を……」「迷惑だなんて言わないで下さい。だって僕から申し出たんですから。でも……そうですね。もしそう感じられるのであれば……朱莉さんの沖縄の住所を教えて下さい」「え? わ、分かりました。では決まったらメッセージで送りますね」「ありがとうございます」京極は満足そうに笑みを浮かべた—― 億ションの前で別れた後、朱莉はエレベーターに乗り込み溜息をついた。(翔先輩の電話が切れて九条さんから電話があったってことはきっと翔先輩が電話に出なかった私を気に掛けて九条さんに連絡を入れてくれたんだろうな……。どうしよう、心配かけさせちゃった。部屋に戻ったらすぐに謝罪のメッセージを送ろう。それに九条さんにも迷惑かけちゃったから電話もいれないと……)朱莉は頭の中で部屋に帰ったらやるべきことを頭の中に思い浮かべるのだった——****ここは沖縄の病院――ふさぎ込んだ琢磨が明日香の入院している個室の椅子に座っている。「ちょっと、仮にも私の前でそんな辛気臭い顔しないでくれる? こっち迄気がめいってくるわ」明日香が雑誌を閉じると琢磨に言った。しかし、琢磨はその台詞
「ただいま……」朱莉は肉体的にも精神的にも疲弊しきっていた。何とか気力で自分の部屋の扉の前に辿り着くと、鍵をと出してドアを開けた。するとドアを開けると同時にスマホにメッセージが届いた。相手は琢磨からであった。「九条さん……。電話しようと思っていたのに、先にメッセージが届くなんて……」朱莉はスマホをタップして画面を確認した。『朱莉さん、25歳の誕生日おめでとう。1日遅れになるけど、明日何かお祝いしよう』メッセージにはハッピーバースディのメロディーと、ケーキの上に乗せたろうそくがパチパチと燃えている動画が添付されている。「履歴書で私の誕生日覚えていてくれたんだ……ふふ。可愛い動画。わざわざ探して、添付してくれたのかな?」その姿を思い浮かべ、思わず朱莉の顔に笑みが浮かぶ。ここ何年も誕生日のお祝いの言葉は母からしか貰っていなかっただけに、朱莉は嬉しく思い、スマホをギュッと握りしめた。(九条さんて、本当に気配りが出来る人なんだ……だから仕事も出来て、翔先輩の秘書を務めていられるんだろうな……)でも……朱莉が一番お祝いの言葉をかけて欲しい相手からは……。「翔先輩は、きっと今頃明日香さんと一緒にいるんだろうな……」朱莉は寂し気に呟き、部屋に入ると琢磨にお礼と謝罪のメッセージを送ることにした。本当は電話の方が良いかもしれないが、京極のことを聞かれたくはなかったからだ。『九条さん。本日はご迷惑をおかけしてしまい、大変申し訳ございませんでした。誕生日のメッセージ、とても嬉しいです。明日からまたお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします』メッセージ内容を確認すると琢磨に送信し、次は翔に電話に出ることが出来なかった詫びのメッセージを送ることにした。『本日は、電話に出ることが出来ずに大変申し訳ございませんでした。明日、沖縄へ行きます。どうぞよろしくお願いいたします。明日香さんにもお伝えください』「……これでいいわね」翔にメッセージを送ると、朱莉はネイビーに水と餌を与える為にリビングへ向かった——「ネイビー。明日は暫くの間ケージの中にいないといけないけど、我慢してね」餌を食べているネイビーの背中を撫でながら朱莉は語りかけるのだった……。 その夜――朱莉の元に病院にいる母から電話が入った。誕生日のお祝いの言葉と気を付けて沖縄へ行くように母から言
今日は朱莉が沖縄へ旅立つ日である。朱莉は6時半に起きると、手早く朝食を取って準備を始めた。 その時、朱莉は2台のスマホに翔と琢磨、それぞれからメッセージの返信が入っていることに気が付いた。琢磨からは羽田空港で何か不明な点があったら連絡するようにと書かれており、翔からは気を付けて沖縄に来るようにと書かれていた。朱莉は翔からのメッセージを見て笑みを浮かべた。(翔先輩、少しは私のこと気にかけてくれてるのなかな……?)すると、再び朱莉の個人用スマホにメッセージの着信を知らせるメロディーが流れた。その相手は京極からだった。『朱莉さん、8時半にドッグランの前で待っていて下さい』短い文章で時刻と場所だけを指定してあった。そこで朱莉はすぐにお礼のメッセージを送り、出発する準備の続きを再開した—―—―8時半朱莉はジーンズ姿にTシャツ、上にブラウスを羽織った姿でドッグランの前で待っていると、すぐに京極がベンツに乗って現れた。「おはようございます、朱莉さん。お待たせしてしまいましたか?」「おはようございます。いいえ、たった今来たばかりなので全然待っていませんから大丈夫です」朱莉は頭を下げて京極に挨拶をした。「荷物はそれで全部ですか?」京極は朱莉の足元に置かれたキャリーケースに肩から下げたキャリーバッグを見つめる。「はい、これだけです。少ないでしょう?」朱莉は笑みを浮かべた。「あの……所で朱莉さん。そのキャリーバックの中身は何でしょう?」京極に尋ねられ、朱莉は眼を伏せると頭を下げた。「申し訳ございません。実はマロンを手放した後、あ、あのウサギなら……アレルギーが無いから大丈夫と主人に言われて……」こんな嘘が勘の良い京極に通じるだろうか?しかし京極はニコリと笑う。「別に謝ることはありませんよ。要するに御主人からウサギなら飼ってもいいと言われたんですよね?」「え……?」俯いて朱莉は顔を上げた。まさかあの京極が苦し紛れの嘘を信用するなんて。「信じますよ。他の人の言葉ならないざ知らず……僕は貴女の言う言葉なら何だってね」それはとても真剣な眼差しだった。「京極さん……」京極からそのような言葉を言われると、朱莉はますます罪悪感という鎖で自分が縛られていくように感じた。(どうしてこの人はここまで私を……?)人の良い京極に嘘をつくのは本当に心苦し
朱莉と京極は第1旅客ターミナルに来ていた。「あ、あの……京極さん。本当にもうここまでで結構ですから」朱莉はIT企業の社長という立場にある京極に自分のような者に付き添ってもらうのが申し訳なく、何度も断りを述べた。「いえ、いいんですよ。今はゴールデンウィーク期間中で、僕は暇人なんですから」京極は笑顔で言う。「ひ、暇人って……」(そんなはずは無いのに……。だってここへ向かう間も何回もメッセージや電話がかかってきて、京極さんは全て対応してきたのに)「それより朱莉さん。思った以上に道路が空いていたので余裕をもって羽田に着くことが出来たので、何処かで珈琲でも飲みませんか?」「は、はい」もう搭乗手続きも済んでいるし、荷物も預けている。世話になった京極の為に自分が出来るのは彼の要望に応えてあげることだろう……朱莉はそう思って返事をした。 2人で近くにあるカフェに入り、朱莉はアイス・カフェ・ラテを、京極はアイス・ティーをそれぞれ注文し、2人掛けの丸テーブルに座ると京極が話しかけてきた。「明るい日の光で朱莉さんを見て思ったのですが……朱莉さんの瞳はよく見ると黒では無く、ブラウンの瞳をしているんですね」「はい。実は父方の祖父がイギリス人なんです。もっとも祖父は早くに亡くなったそうで、私は会ったことも無いのですけど」すると京極は頬杖をつくと真顔で言った。「ふ~ん……だからだったんですね。朱莉さんが人並み以上に美しい容姿をしているのは」「え……ええっ!?」あまりの唐突な京極の言葉に朱莉は顔が真っ赤になってしまった。「そ、そんな大げさな……今迄一度だって誰からもそんな風に言われたことありませんよ」朱莉は慌てて下を向くとストローでアイス・カフェ・ラテを飲んだ。「そうなんですか? あの九条さんにも言われたことが無いのですか?」いきなり京極の口から琢磨の名前が出てきたので朱莉は驚いた。「な、何故そこで九条さんの名前が出てくるのですか?」そう、普通に考えればそこで名前が出てくるのは琢磨ではなく、夫である翔のはずなのに何故か京極は琢磨の名前を出してきた。「いえ。何となくそう思っただけです。深い意味はありませんよ」そしてニコリと笑う。「……」朱莉は黙って京極を見た。朱莉の方こそ京極の行動が謎で仕方が無かった。京極は背も高く、スポーツマンタイプに見える
明日香が入院している特別個室に翔、琢磨、明日香の3人の姿があった。翔と琢磨はそれぞれPCに向って仕事をしている。そして明日香は液晶タブレットでイラストを描いていたが、やがてペンを置くと伸びをした。「う~ん……やっと終わったわ」「明日香、仕事が終わったのか?」翔はPCから視線を上げると明日香を見た。「ええ。終わったわ、今回の依頼はゲラを早く貰えたのよ。だから余裕をもって読むことが出来たからね」「明日香は速読が得意だからな。1〜2回読み込むことぐらい簡単だろう?」翔が明日香の描いたイラストを覗きこんだ。そこには血まみれの人形を抱えた青白い顔の女性が廃墟の中に佇む不気味なイラストが描かれている。「うっ! あ、明日香……。今回のイラストなんだが……どんな内容の小説なんだ……?」翔は顔をしかめた。「ええ。呪われた人形を偶然手に入れてしまった女性に次々と襲い掛かる恐怖の世界を綴った小説よ。この作家さんは新進気鋭のホラー小説家らしいわ」「明日香のイラストは評判がいいからな。イラストレーターとして知名度も高いし。でもあまり無理に仕事をするなよ? 今は安静にしていないと……」翔は明日香の頭を撫でると、今迄無言だった琢磨が乱暴に椅子から立ち上った。「ちょ、ちょっと琢磨! 驚かせないでよっ!」「どうしたんだ? 突然」2人の問いかけに琢磨は乱暴に答える。「別にっ! そろそろ朱莉さんの乗った便が到着する頃だから俺はもう飛行場へ行くからな」どこかイライラしている琢磨の口調に翔は不思議に思った。「え? おい、琢磨。まだ到着までには1時間近くあるぞ? 何もそんなに急がなくても……」「あのなあ、この部屋にはどう見も俺はお邪魔虫だろう? だから早めに空港へ行って待ってるんだよ!」「あら、琢磨。気が利くじゃないの。でも本当の理由は違うんじゃないの? 朱莉さんから一度も連絡がなかったからイラついてるんじゃないの?」明日香の言葉に翔は琢磨を見た。「え? そうなのか? 琢磨」「う……!」(こ、こいつら……なんて無神経なこと言うんだ? 人の気も知らないで……!)琢磨は2人をジロリと睨み付けると明日香がわざとらしく肩をすくめる。「おお、怖い。朱莉さんは琢磨のこんな本性を知ってるのかしらね?」「うるさい! 明日香ちゃんにだけはそんな台詞言われたくないな!」
「それじゃあ、朱莉さん。また明日」琢磨は靴を履くと朱莉を振り返った。「はい。又明日……」「朱莉、それじゃあな」航は朱莉の頭を撫でた。「うん、又ね?」それを見た琢磨は航を咎める。「安西君。年上の女性に頭を撫でるなんて失礼だと思わないのか?」「いや別に。俺に頭撫でられるの、朱莉はいやか?」「え……? 全然いやじゃないけど?」朱莉が首を傾げて返事をし、航は勝ち誇った顔で琢磨を見る。「ほら、見ろ。朱莉は嫌じゃないってよ?」「……っ!」琢磨は悔しそうに航を見つめ……促した。「よし、それじゃ……行くぞ?」「ああ、いいぜ」どことなく喧嘩腰の2人を見て朱莉は流石に心配になってきた。「あの……」「「何?」」2人が同時に朱莉を見た。彼らの間に異常な緊張感を感じた朱莉は自分の伝えたい気持ちを言葉にすることが出来ない。「い、いえ。それじゃ……おやすみなさい」「ああ、お休み朱莉。ちゃんと戸締りして寝るんだぞ?」何処までも航が朱莉の彼氏の様に振舞う姿が琢磨には我慢できなかった。料理が「朱莉さん。今度は俺が手料理を振舞うよ。こう見えて俺は意外と料理が得意なんだ」本当は包丁すら握ったことが無いのに、琢磨はつい口から出まかせを言ってしまった。すると航も口を挟んできた。「朱莉! 俺も今度はお前の為に料理を作るからな!? 楽しみにしてろよ!」そしてじろりと琢磨を睨み付ける。「あ、ありがとうございます……」朱莉は航と琢磨の雰囲気に押されながら礼を述べた。「じゃあな、朱莉」「またね、朱莉さん」扉を開けて出ていく航と琢磨。—―バタン……玄関のドアが閉められた。「つ、疲れた…」ようやく朱莉は安堵の溜息をつき、その場に座り込んだ——****「「……」」琢磨と航は無言でエレベータの隅に立ち、互いをけん制し合っていた。やがてエレベーターが1階に着いたので、2人は無言で降りると琢磨が口を開いた。「取りあえず俺の車の中で話をしようか」「ああ、いいぜ」「それじゃ待ってろ。今車を前に持って来るから」琢磨はぶっきらぼうに言うと、駐車場へ車を取りに行った。そんな琢磨の背中を見ながら航は呟いた。「全く……あの九条って男は俺の想像していたタイプとは大分違ったな。でもある意味、京極よりは分かりやすいだけマシか……。あいつの方がたちが悪そうだもんな
今、3人で囲んだ食卓は一種異様な緊張感が漂っていた。航も琢磨も互いをけん制し合うように睨み合っているのを前に、朱莉はどうしたら良いか分からなかった。(困ったな……。どうしてこんなことになってしまったんだろう? 航君も九条さんも何だかいつもと雰囲気が違うし……)朱莉は翔のことしか目に入っていないので、自分が原因で2人が険悪な雰囲気に陥っていることに全く気が付いていなかったのだ。「あ、あの……。今夜は少し冷えるのでブイヤベースを作ってみたのですが……。2人供食べれます……か?」恐る恐る朱莉は尋ねる。「ああ、食べるに決まってるだろう? 俺は好き嫌いは何も無いし、朱莉の作った食事なら何でも食べるぞ?」航が笑顔で朱莉に言う。「朱莉さん。俺も好き嫌いは何も無いから大丈夫だよ。朱莉さんの作った食事、とても楽しみだよ」琢磨も満面の笑顔で言うと、琢磨と航は互いをジロリと睨み合った。「あ、あの……そ、それでは今出しますね……」すると航が立ち上った。「朱莉、手伝うぞ? 何をしたらいい?」「ありがとう、航君。それじゃ食器を出してくれる?」朱莉は笑顔で航に言うのを琢磨は面白くなさそうに見ている。航は朱莉に礼を言われると、これ見よがしにチラリと琢磨を見た。(どうだ? 九条。俺は1週間近く朱莉と同居していたから息がぴったりなんだよ)一方の琢磨は航の行動をイライラしながら見ている。(何なんだ……? あいつは! 京極とはまた違った意味で人をイラつかせる男だ……!)やがてテーブルの上にはブイヤベース、さまざまな具材が乗ったバゲット、アボガドとエビのカクテルサラダが並べられた。「へえ~。美味しそうだ。流石だね、朱莉さん。色とりどりで見た目も華やかでとても素敵だよ。写真を撮ったらSNS映えしそうだね」琢磨の言葉に朱莉は頬を染めた。「あ、ありがとうございます……九条さん」そしてそんな様子を面白く無さげに見る航。(どうだ? お前も何か気の利いたセリフの1つでも言ってみろよ)琢磨は自分でも大人げないとは思いつつ、挑戦的な目で航を見た。「あ、朱莉!」航は朱莉を大きな声で呼ぶ。「な、何? 航君」「全部うまそうだ! いや、美味いにきまってる!」「びっくりした〜突然大きな声を出すから。それじゃどうぞ。食べてみて下さい」「ああ、いただこうかな?」言いながら
航と琢磨は互いにエントランスで睨み合っていた。朱莉の姿がいなくなると最初に口を開いたのは琢磨の方だった。「名前は聞かされていなかったけど君なんだろう? 興信所の調査員で、仕事の為に沖縄に来て朱莉さんと知り合って、同居していたって言うのは」「ああ、そうさ。朱莉、あんたに俺のこと話していたんだな?」航はニヤリと笑った。「どうやらお前は相当口が悪いみたいだな? だったらこちらも遠慮するのはもうやめるか」「へえ? あんたは京極とはタイプが違うんだな?」「何? 京極のことを知ってるのか?」「その反応からするとあんたも京極のことを良くは思っていないようだな?」琢磨は航の口ぶりから警戒心をあらわにした。「お前一体どこまで知ってるんだ? 興信所の調査員だって言ってたな? ひょっとして朱莉さんと知り合ったのも俺達絡みの件でか?」「へえ? その口ぶりだと心当たりがありそうだな? だが俺がそんなこと話すと思うのか? 仮にも俺は調査員だからな」航は挑発をやめない。そもそも朱莉と翔の偽装結婚のきっかけを作った琢磨が憎くて堪らなかった。(九条の奴が朱莉をあんな奴に紹介さえしなければ……)そう思うと琢磨に対する怒りがどうにも抑えられない。琢磨も初めの内は何故自分が航から敵意のこもった目で睨まれるのか見当がつかなかったが、調査員と言うことを考えれば、今迄の経緯を全て知ってるかもしれないと気付いた。(ここで話をするのはまずいな……)「おい、どうした? 急に黙って」航は怪訝そうな顔を見せた。「取りあえず……ここで話をするのは色々とまずい」「あ、ああ。言われてみればそうだな」航も辺りを見渡しながら、京極に言われた言葉を思い出した。「あまり遅くなると朱莉さんが心配する。取りあえず話は後にしよう。もし時間があるなら朱莉さんの手料理を食べた後場所を変えて話をしないか?」琢磨は航に提案した。「ああ。それでいいぜ。あんたには言いたいことが山ほどあるからな」航の言葉に、琢磨は不敵な笑みを浮かべる。「ふ~ん。どんな話が聞けるかそれは楽しみだ」そして2人の男は互いを見つめ……「「取りあえず荷物を降ろすか」」声を揃えた――****「航君と九条さん、遅いな……」料理を作りながら朱莉はソワソワしていた。「喧嘩とかしていたらどうしよう……。迎えに行ってみよう
琢磨は雨に打たれながら、朱莉と航が抱き合ている姿を呆然と見ていた。(誰なんだ……? あの男……航君と呼んでいたけど、まさか朱莉さんが沖縄で同居していた男なのか?)気付けば琢磨は歯を食いしばり、両手を強く握りしめていた。そして一度自分を落ち着かせる為に深呼吸すると、2人に近寄って声をかけた。「朱莉さん。その人は誰だい?」すると、その時航は初めて朱莉から離れて顔を上げ、琢磨の顔を見ると表情を変えた。「あ……あんたは九条琢磨……」(何? この男は俺のことを知っているのか?)そこで琢磨は尋ねた。「君は何故俺のことを知っているんだい?」すると航は言った。「そんなのは当たり前だろう? 自分がどれだけ有名人か分かっていないのか? 元鳴海グループの副社長の秘書。そして今は【ラージウェアハウス】の若き社長だからな」「そうか……。それで君は?」琢磨はイラついた様子で航を見た。航は先ほどからピタリと朱莉に張り付いて離れない。それがどうにも気に入らなかった。「あの、九条さん。彼は……」朱莉は琢磨のいつもとは違う様子に気付き、口を開きかけた所を航が止めた。「いいよ、朱莉。俺から自己紹介するから」その言葉を聞き、琢磨は眉が上がった。(朱莉……? 朱莉さんのことを呼び捨てにしているのか!? どう見ても朱莉さんよりは年下に見えるこの男は……)「俺は安西航。仕事で沖縄へ行った時に朱莉と知り合って1週間程あのマンションで同居させて貰っていたんだ。貴方ですよね? 朱莉の為にあのマンションを選んでくれたのは。2LDKだったからお陰で助かりましたよ」何処か挑発的に言う航。腹の中は怒りで煮えたぎっていた。(くそ……っ! この男が朱莉を鳴海翔に紹介しなければ朱莉はこんな目に遭う事は無かったのに……! それにしても悔しいが、顔は確かにいいな……)琢磨は何故航がこれ程自分を睨み付けているのか見当がつかなかった。(ひょっとしてこの男は朱莉さんのことが好きだから俺を目の敵にしてるのか?)一方、困ってしまったのは朱莉の方だ。まさか今迄音信不通だった航が突然自分の住んでいる億ションに現れるとは夢にも思っていなかったからだ。航とは話がしたいと思っていたので朱莉は提案した。「あの……取りあえず中へ入りませんか? 食事を用意するので」すると航は笑顔になった。「いいのか? 朱
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と